11月19日
青い空、紺碧の海、彼方のベージュ色の砂浜とその向こう続くイタジイの森。昼の休憩、小型船舶の二階、船長が弾く三線の音色、頰を撫でるゆっくりとした風。午前中は海の中で、私のすぐ横をアオウミガメが通り過ぎた。
石垣島まで来たのだから、ダイビングを経験したい、今日は森下さんとは別行動なのだが……。最高のロケーションの中に身を置いても何故か心が浮かない、楽しめない。森下さんがこの場にいないからだ。
俺って自分で思っている以上に、意外といい人なのかなと、還暦を過ぎてふとそんな思いが横切る。否、森下さんの人格が何かしてあげたいという気持ちにさせるのか、あるいは重度身障者と旅をすれば多くの人はこんな心模様になっていくのか。初めての経験で最悪の状況を色々と想定したが、13日間一緒に旅を続けてきて、あれを見せたい、これをしてあげたいと言う思いはますます募る。彼のほのかに漂うションベン臭さもとっくに慣れた。重度の身障者だが、この景色や海の中の世界を彼にも体験させてあげたかった。
夜、彼と焼肉屋にいる。ちなみに石垣島には石垣牛の看板を掲げた焼肉屋が目立つ。昨日は生まれて初めてのクッパ、今日は子供の時以来のビビンバを彼は“犬食い”している。森下さんと今日の出来事で話は盛り上がった。
「午前10時頃、タクシーを呼んでもらって、しまむらに行ったんです」昨日、半ズボンがもうひとつ欲しいと言っていた。ズボンの替えはあるが、けっこう神経質な彼はトイレを失敗した時の着替えを足したいのだろう。ホテルのテーブルの上のしまむらの袋には、真っ赤な短パン、ジーンズ、ジャージ、フリーズが入っていた。「兵庫の施設はもう寒いから、施設の戻ればあまり外に出れないから」
しまむらではトイレに入ろうとしたが、子供がウロウロしている。用を足している時に子供に興味を持たれると恥ずかしい。「そこから100mぐらい離れたトップバリューに行ってトイレを済ませて、ふと見るとお鮨がある。俺好物だからお鮨を買ったんです。ホテルで昼ごはんに食べようと思って。トップバリューを出ると、ミスタードーナッツが目の前にある。俺ドーナッツも好物で、入りたくなってドーナッツと魚のハンバーガーを食べて。店を出てフラフラ行くと、何か臭い。ブタが10匹ぐらい飼われていました」「町中でブタが飼育されていたの?」
言語障害のある彼との会話は、聞こえたままに私がおうむ返す、意味をなしてない言葉を彼が何度か修正しコミュニケーションを図る。私はブタを聞き間違えたのかと思ったのだ。「ブタ、本当に黒ブタや、ブタに驚いて、どうホテルに帰ればいいのかわかんなくなって。近くのおじさんにタクシー会社の電話番号を聞いてもわからない。また、しまむらに戻って店員さんにタクシー会社に連絡してもらってホテルに戻ったんです」何せ、100m進むのに10分はかかるのだから、大変なショッピングだったことは想像に難くない。
「南国の果てと思って来たけど、この島にはなんでもある。那覇に負けるかと頑張ってんのかな、声をかけてきたおばちゃんはみんな声が大きくて明るかった。女の人もあか抜けている感じがした」
彼に言われてみると今日のダイビングツアーも満員だったし、いい値段を取る石垣牛の焼肉屋も多い。コジャレた飲み屋や飲食街のネオンも結構華やかだ。女性があか抜けて見えるのは観光客が多いせいだろう。沖縄以上にここ石垣島は今、観光の好景気に沸いている印象だ。
「いろんなおばさんが声をかけてくれた。道を渡るのに4回も車椅子を押してもらったんや、「おじさん、どっから来たの?」 「兵庫県です」 「ヒェー、私らでも島をよう出れんのによく来れたねぇ、すごいねー」って、いろんなおばさんに大きな声でほめられた」と森下さん。「俺はサンゴ礁の中でカラフルな熱帯魚が泳いでいるのを見たよ」と私。「トップバリューで知り合ったばあちゃんに兵庫県から来たと言ったら、そんな体でこんな遠くに来たらあかんと言われたんや。もう90歳なんだから、息子や親戚に外に出るなって、そのばあちゃんは言われているって。“俺は外に出たいから出てるんです”と言ったら、ばあちゃんは“私もだ”って。お互い顔を見て笑ったんです」「アオウミガメに巣のようなところも潜って。俺のすぐ横を亀が通り抜けて行った」「一人で車椅子からタクシーに乗り移れると言ったのに、帰りのタクシーの運転者さんが万一のことがあったら大変やからって、乗るときも降りるときも俺を抱きかかえてくれた。きつそうな顔してた、俺はありがた迷惑だったけど」「マンタって小さな小屋の屋根ぐらいある大きなエイの仲間が10mぐらい先で泳いでいるのを見たよ」
ふと彼は黙った。そして、私を見て「うらやましい……」ぽつりと呟いた。その言葉が少し心に刺さった。
「俺はダイビングにいけない、だから見たことを聞かせてください」昨日、彼からそう言われていた。彼の体験談には妙な臨場感がある。彼には言語障害があるから、こちらは彼の言葉を噛み砕くように真剣に聞く。多分それが臨場感を増す要因になっているのだろう。いつしか彼に負けないような体験をしたという思いが私の中にあった。
でも、今日の体験談を張り合うようにして語ったのはやり過ぎだった。