第12回、国際通りでの顛末その2「殴りたいなら殴ってみい」

11月17日

 

午後9時過ぎ、森下さんと私はホテルのそばのとんかつ屋にいる。アグー豚のロースカツ定食を頬張りながら、「とんかつ美味いわ」と、さっきの大泣きがウソのような笑顔だ。もっとも彼の場合、普通の顔が笑顔に見える。

「森下さん、どうしたの?」彼は一生懸命に国際通りの夜、2時間の行方不明の顛末を語った。

 

「いいね、森下さん、今3時15分だから、6時15分にここで待ち合わせよう、3時間あればいろいろと見て回れるでしょう」と、私は繰り返し伝えたつもりだった。ところが、そもそも彼は待ち合わせの時間を勘違いしていた。5時15分だと思い込んでいたのだ。このボタンのかけ違いが痛かった。彼は望み通り国際通りのTシャツ店に向かった。そして「私が外に出ることで、何かが変わるかも?」と背中に気張った文字を入れたTシャツを作った。店の外に出ると、Tシャツ店のスタッフが待ち合わせ場所の国際通りの「てんぶす前」バス停の近くまで、車椅子を押してくれた。彼は4時半過ぎには待ち合わせ場所に着いている。

トイレに行きたくなった。私との待ち合わせの時間には余裕がある。国際通りに面するドンキホーテなら、立ち便器があるに違いない。てんぶすバス停から100mほど離れたドンキホーテに向かった。7階のトイレで用をたす。ところが失敗してしまった。いつもように車椅子で立ち便所と向かい合い、便器の隅に左手をかけて立ち上がり、右手を添えチャックの先の輪っかに人差し指をかけチャックを下ろしたところまではよかったが、チンチンがうまく出てこなくて、ズボンをかなり濡らしてしまったのだ。

 

これで彼はかなり落ち込んでいる。5時15分に待ち合わせ場所のてんぶす前のバス停に戻った。約束の時間が過ぎても、私はない。彼は早くホテルに戻ってパンツとズボンをはき替えたかった。ホテルに戻れば私から電話があり、連絡が取れると判断したに違いない。彼はホテルに向かってトボトボと車椅子を漕ぎ出した。今日は私と会えなかったのだから夕飯は一人だ。一人旅の時の彼の夕食は大抵コンビニ弁当である。国際通りの繁華街の入口の蔡温橋の交差点までたどり着いた。モノレール牧志駅の真下だ。交差点の角にローソンがある。ちょうどいい、弁当を買ってホテルに戻ろう。ところが、店の入口まで4段の階段がある。誰かの助けを借りて4段の階段を上らなければならなない。

「階段が登れないんです、誰か助けてください」国際通りの入口に障害者の言葉が響いた。できないことは人に頼む。もつれる下で彼は大声を上げた。ガチャ目なので人との視点は合わないが、道行く人の目を見て訴えた。だが誰も止まってくれない。こうなると彼も、濡れたズボンのことも忘れ意地になる。

 

一人の初老の男性が森下さんの前で立ち止まり顔を近づけてきた。「すみません、この階段あげてくれませんか」酒臭い。目に敵意を感じる。「なんだ、お前、なんで障害者がこんなところにいるんだ。障害者が俺ら生活の保障をしてやってるんだから、施設でじっとしてればいいんだ。人に迷惑をかけるのになんで外に出て来るんだ」この手の出来事は、一人旅をすれば必ずといっていいほど遭遇する。そんな場合、森下さんも負けてはいない。「おっちゃん、仕事してんのか、昼間から酒飲んで障害者や」もつれる舌での言葉はっきりと聞き取れないが、バカにされたことはそのニュアンスでわかる。昼間から酒を飲んでいる自分よりも、低い立場の障害者に非難されたことが、よっぽど腹に据えかねたのか。初老の男はゲンコツを作った。

「殴りたいなら殴ってみい」障害者が一人旅だ、旅に出たら何が起こるかわからない、覚悟はできている。さすがに、一緒にいた初老の女性が「あんた、行こう」と男の手を引くようにして、森下さんから離れた。

 

「すみません、階段をあげてください」人通りの多いローソンの前で、彼は声を上げ続けた。38人の目を見て頼んだという。誰も手助けしてくれない。見て見ぬ振りだ。「多分さ、沖縄の人はシャイだから手伝ってあげたくても、ちゅうちょしちゃうんじゃないかな」「違うね、人それぞれだということ」これは森下さんと私との会話だ。ようやくローソンのスタッフが店の前の彼に気付き、3人がかりで4段の階段をあげ、彼は幕の内弁当と飲み物を購入することができ、再びスタッフの手助けで外に出た。「どうもありがとうございます」礼を言ったのはいいが、さてホテルに帰りたい。だが帰る道がわからないことに気づいた。

「すみません、ダイワロイネットというホテルに行きたいんですけど」若い男性二人連れが立ち止まった。「ちょっと待ってね」携帯でホテルを調べる、「それは浦添市にある、タクシーで行ったほうがいい」タクシーを止めようとする。「違います、歩いてきたんだからホテルはこの近くなんです」この二人も旅行者だった。「警察に電話をしたほうがいいよ」警察に連絡などされたら面倒なことになる。「いいです、自分でやりますから、いいんです」今度は必死に断った。

いつも一番に寄ってくるのは子供たちだ。この時も地元の女子中学生のグループが、「おっちゃん、どうしたの?」と、話しかけてきた。「道に迷ったんです」とホテルの名前を言う。「あっ、知っている!」一人が彼の宿泊先のホテルを知っていた。ホテルは牧志駅から続く通路の途中にある。すぐそこだ。女子中学生は車椅子をみんなで押すようにして、にぎやかにホテルに森下さんを送り届けた。それが「森下様、30分ほど前に女子学生とにぎやかに戻ってまいりました」と、ホテルのスタッフが私の告げた言葉の真相だ。

森下さんの部屋を訪ねた時、床に寝転がり、パンツを10㎝ほど下げ全身を芋虫のように動かしていたのは、ドンキホーテの便所で失敗し、濡らしたパンツとズボンを取り替えようとしていたのだ。

言語障害がある彼は本当の気持ちを伝えようとする時、泣くことしかできない。そんな彼をまた泣かせてしまった。

 

森下さんを国際通りで一人にしたことはいい。しかし些細なアクシデントにも彼一人で対応できるようホテルと私の電話番号を記したメモ書きを彼の車椅子のポケットに入れる。私とはぐれても誰かに訴え、連絡が取れるよう万全の処置をすべきだった。私自身、重度心身障害者のことを、よく知らなかった今回の国際通りでの一件だった。

 

現在、11月17日午前8時、森下さんと私は石垣島にいる。昨日、那覇を発ってこちらに到着した。「森下さん、何をしに石垣島に行くの?」「なんも目的はありません。ただ、俺みたいな重度の身障者が最南の場所に来たんだということだけで嬉しい」さて、今日からはどんなことが待ち受けているか。

 

ちなみに彼の石垣行きの飛行機は私よりも4時間ほど早かった。ふ振り返ってみると森下さんと一緒ではない時は、「沖縄はオリオンビールでしょう、泡盛も飲まないとね」とか、私は四六時中、酒を飲んでいる。昼間から酒を飲んでいる私は、“障害者”なのかもしれない。否、“障害者”だ。