第7回最後の千羽鶴、そして沖縄のビーチ

11月12日

今、この文章を書いているのは12日午前2時過ぎである。
実は10日の夜にホテルで森下さんと別れる時に若干、口ゲンカをした。「大便と小便、シャワーと着替え、これを全部一人で済ませるのには、どのくらいの時間がかかるのか」「その時によって違う」「しかし、もっとも時間がかかった場合を想定して、何時なら大丈夫だと言えるはずだ」「だからその時によって違う!」言語障害から、強く主張しようとすると怒ったように聞こえる。
「できるけど時間がかかる」というのは彼の口癖だ。健常者が1時間に10できるところ、森下さんは1か2しかできない、こちらは待つ、これがかなりの忍耐を要する。時にカッとすることもある。
「午前10時に迎えに来るからね!」そう告げると部屋を後にした。宿泊先の民宿に戻る車内で、「根岸さんはイラチなんだから」同行しているAさんに、それとなくたしなめられた。確かにそうなのではあるが……。
前の4日間の民宿の宿泊では途中で大便タイムになり、身体者障害者トイレに1時間半こもって、この日予約した移動のためのタクシーの予約をキャンセルしなければならない事態になった。宿泊した民宿のトイレは車椅子が入らず、しかも手すりがグラグラして大便ができなかった。そこで「出発前に大便済ませてくれよ、よし、俺が朝、6時に森下さんを連れて近所の総合病院に連れて行くから、障害者トイレで頑張ってくれ、1時間経ったら迎えに行くから」と対応した。
立ち便所のない民宿のトイレでは小便を足すことができず、借りたバケツにした。ところが小便をしたバケツをこぼしてしまい、森下さんは1時間以上かけて一人で床にこぼした小便を、使用済みの汚れた下着で拭き取った。

「大便と小便、それと自分食べること、この3つが自分の力でできなかったら、一人旅はしない」これは彼の口癖である。いったいそれをどう克服しているのかは次回に詳しく報告する。
さて、11日、朝、ホテルを尋ねると、彼は車椅子でベランダに出て、涼しそうな顔で目の前に広がる名護のオーシャンビューを眺めている。その横の椅子には洗濯したTシャツとズボンが干してある。聞けば5時起きしてトイレ、風呂、着替え、そして唯一、自由になる左足でゴシゴシと衣服を踏みつけ、洗濯したのだという。このホテルのバリアフリーの部屋は時間をかければ自分でできる部屋の作りになっていた。
前日の夜、「時間は想定できる」「午前10時には向かいに来る」そう強く私に言われたことが悔しかったに違いない。それまでに完璧に全部を済まそうと、朝、5時に起床し4時間以上七転八倒して、準備を自ら整えた。
彼はひとなみはずれた根性がある。私は彼のそれをリスペクトせざるを得ない。

毎晩9時には暮らしている兵庫県の重度心身障害者施設に電話を入れ安全を報告する。鉛筆をくわえてプッシュホンをキツツキのように叩くが、部屋の電話機はそれが通用しない。仕方なくフロントに降りて行き、暮らしている施設の名前と電話番号を告げ、電話をしてくれるように頼んだ。「ふつう、3回話せば俺の言うことを理解してもらえるんだけど、対応してくれたお姉さんは10回言ってもわかってくれなかった。さすがに俺も頭にきた。俺をバカにしているのかということを強く言った」
男の人が代わりに電話をしてくれ、園には無事を知らせることができた。用が終わり車椅子で部屋に戻る時、男のスタッフが駆け寄ってきて、「すみなせん、実はあの女性スタッフは右耳が聞こえない、不自由なんです」と森下さんに告げた。
「人は見かけによらない、反省した、旅すると反省することが多い」彼は私のそう告げた。

7000羽の千羽鶴は糸満市で、平和祈念公園内の資料館と、ひめゆりの塔、米須地区の「忠魂の碑」に寄贈した。最後の千羽鶴の寄贈先として森下さんは辺野古の新基地反対運動のテント村に決めた。
11日、海岸に面したテント村を訪れる。テントの前には「勝つ方法はあきらめないこと」「テント村座り込み5320日」と掲げられている。「重度心身障害者施設のみんなが折りました。施設のみんなの思いを僕が代表して届けました」一生懸命にスタッフに自分の意思を伝える。
沖縄にこれ以上基地はいらないこと、世界一危ない普天間飛行場の代替施設として辺野古を埋め立て、二つの飛行場を作る、それが大義名分だが付帯条件があって、辺野古が完成しても普天間の基地は無条件で返却されないこと、そもそも海底の一部は、マヨネーズ状のような軟弱地盤で新基地建設のための埋め立てには不向きであること、完成もおぼつかないこと等々、大浦湾を埋め立て、辺野古の新飛行場を建設する不条理については、ここではあえて詳しく触れない。
「森下さんさ、なぜ最後の千羽鶴を辺野古の基地反対のテントに持って行ったの?」そんな私の質問に「ひめゆりの塔、戦争資料記念館、ガマで皆殺しにあった住民、それと辺野古の基地建設が繋がっていると思って。基地を作るってことは戦争も作るってことでしょう。戦争は止めないと、だから応援したいと思って」彼はそう応えた。

今日、午前中、Aさんは東京に帰る。4泊5日の同行だった。私はあと、9日間、彼と一緒に旅をする。「あんたと二人旅、正直言って、これからもうまくやっていけるかどうかれるか、自信はないよ。よろしくお頼みますね、森下さん」そう言って背中を叩くと、彼は笑顔で車椅子から私を見上げた。笑顔はいつもだ。それが彼の普通の表情なのだ。

私の事情を言えば、持病でもある極度の不眠症に陥っている。