第6回、私自身を知る旅、私自身が問われる旅、

11月11日

森下さんと私と、一昨日から旅に加わったAさんの関係である。20数年前のことである。私は雑誌のライターを生業にしている。

兵庫県の重度身障者施設の職員が地元の環境を整えホタルを増やし、施設のみんなにホタルを鑑賞させる活動をしている。その職員を取材し、ネイチャーマガジンで記事にした。その施設にまだ30代の森下さんが入居していた。彼は日本全国を一人旅しているという。これは面白いと感じた私は、漫画のネタにしょうと企み、知り合いのコミック誌の編集者に話を持ち込んだ。その編集者がAさんだった。

企画は実現した。森下さんと私と編集者のAさんは出版社の潤沢なお金で短い期間だが北海道を旅行した。私は原作を担当した。コミック誌には森下さんをモデルにした身障者の旅物語が掲載され、それなりの人気を獲得した。

マスコミの人間としては、これで終わりのはずだった。ところが、数年に一度、森下さんが旅の途中で東京を訪れる時、私たちに連絡をくれる。彼と私とAさんはその度に一緒に食事をし、東京の観光地を案内した。今、3人とも還暦を過ぎ、森下さんは体力的にも多分、これが最後になるであろう長期の旅を計画していた。

ふと、彼の旅に同行してみたくなった。重度心身障害者と2週間以上旅する経験は、これからの私の人生でまずない。私は重度心身障害者のことを全くと言っていいほど知らない。身障者は衣、食、住の他に介護を必要とする。重度の身障者の彼は介護者をつけずにたった一人で、これまで大小合わせると30回以上、旅をしている。20年数年前の北海道の取材旅行は潤沢な取材を使えたが、森下さんの本当の一人旅は一体どんな旅なのか。

「遅いですが、一人でできます。できないことを大声出して人に頼みます」それが、彼の口癖だ。それはいったい、どういうことなのだろうか。

そして最も興味のある点は、そんな重度身障者の彼の旅を、特別に介護のトレーニングを受けたことがない健常者の私が受け入れられるのか。お互いに折り合いをつけ、それなりに楽しい旅が実現できるのか。いったいこの旅で私は何を感じ、何を得て、何を反省するのか。

これは還暦を過ぎた私自身を知る旅だ。私自身が問われる旅である。

糸満からバスで那覇に移動した。路線バスは障害者対応のノンステップバスだった。運転者さんはスロープ設置し、安全ベルトを幾重にもセッティングする。乗車の際はその作業に5分以上がかかる。降りる際にも同じ時間が必要だ。彼の「時間がかかる」という言葉は、バスに同乗している人等、彼と袖すり合う人は“時間がかかる”ことに付き合わざるを得ない。このことが私の中で徐々に大きな問題の一つになっていくのだが……。

那覇バスターミナルで名護行きのバスに乗り換える。120番のバスである。Aさんと私はバス停の横のベンチに腰掛け、彼がバスに乗るのを見届けた。最初のバスはバリアフリーに対応できず乗ることができなかった。同じバス停にリムジンバスが到着する、中年女性が近づきチケットがないと乗れないと告げる。路線バスにチケットはいらない。彼もそこは理解しているようだ。左足しか自由にならない車イスの彼に近づく人はほとんどいない。

待つこと、1時間半、身障者対応のバスに乗ることができた。運転者さんはスロープを取り出しセットし、車内では安全ベルトを幾重にも閉め出発した。私とAさんはレンタカーで名護に向かう。

「バスの中は面白かったです。中国人が3分の2いた。その中の子供が面白がって停車のボタンを7回も押したんです。親はそんな子供を一切、叱らない。最初は優しく注意していた運転者さんですが、最後は「やめろ!押すんじゃない!!」と怒った。沖縄の人は優しい人が多いです。怒った沖縄の人を見たのは初めて。でも7回目に初めて怒った」

道を間違えた私たちより、彼は早くホテルに着いていた。3日間名護に滞在する宿泊先彼は、部屋からビーチが見渡せるリゾートホテルだ。昨日までの民宿とは違い、バリアフリーが完備され、たっぷりと好きなだけ時間をかけてトイレも風呂の自分することができる、と彼は言う。ころげまわるようにして服を脱ぐだけでも1時間はかかる。

私とAさんは辺野古の民宿に宿をとった。

森下さんが旅先を選ぶ理由の一つが“弱い人がいるところ、いじめらている人がいるところ、ひどい目にあった人たちのいたところ”である。今回は沖縄に決めた。沖縄戦の戦没者の慰霊に千羽鶴を手向けた。11日の朝、この文章を書いている。今日辺野古の新基地建設に反対する人たちのテントを訪れる。森下さんの希望だ。話題になっている辺野古をこの目でみたい、私もAさんも辺野古の大浦湾の埋立についてこの目で見たい。

さて、最後の残った千羽鶴の行方は……。