11月6日
今日からレンタカー移動である。車椅子から後部座席に手助けなしに移動。両手は使えないので、森下さんはシートベルトを左腕で抱え、左ひじをドアの物入れについて、全力を振り絞って人の手を借りずに後部差席に移動。健常者が100段の階段を全力で登るぐらいの体力がいるのだろうと察した。
世界一危険と言われる宜野湾市の普天間基地を一望する嘉数高台公園へ。車椅子は手で漕ぐものだが、両手が使えない。車椅子は特注でステップを取り外してある。唯一自由になる左足で後ろ向きになって車椅子を漕ぎ前に進む。以前は少し使えた右足が、膝の故障でまったく使えず、踏ん張りが利かなくなって移動が極端に遅い。100m進むのに10分はかかる。
展望台まで続く入り口に着いた。急坂である。ひっきりなしに目の前を通る修学旅行生に「上まで登りたいで、助けてください」と訴える。言語障害があり、声も小さいので立ち止まる人はなかなかいない。引率の先生が立ち止まった。何を言っているのか耳を近づける。そして私の方を見る。「上まで手助けしてくれませんか」つい大声を出してしまう。
傍観者に徹するはずじゃなかったのか。ちょっと反省だ。どうすればいいのか。
私を含む4名で代わる代わる車椅子を押し展望台の下まで。「せっかく来たのだから普天間基地を一望する展望台の上まで上がりたい」彼が言った。「よし」私を含め、引率の先生3人と男4人で、3階の展望台の最上階まで車椅子を持ち上げる形で螺旋階段を担ぎ上げた。これが岩のように重かった。
車椅子から立たせて、普天間を一望する。私が両脇を抱え立たせる。彼は普天間基地の全貌を目にする。ボランティアの青年が守備隊と米兵の激戦を語る。73年前、那覇をはじめ本島の下の方はあっちもこっちの激戦地だった。沖縄の民間人が4人に一人亡くなったという。
森下さんが突然号泣する。解説するボランディアの青年も黙り、あたりも一瞬、シンとなる。「何故泣いたのか」後で聞いた。「沖縄を旅行するにあたり沖縄戦の本を読んだ。今日見た基地の前の海を何十万という米兵を乗せた上陸用舟艇が埋め尽くしたのだろう。そのことを想像した、それを丘の上で目撃した民間人は逃げるに逃げられない。その気持ちを思った時、想像に余りある。もし73年前、身障者の俺がその場にいてその光景を目にしたら、あの戦争の中にいたとしたら」「そう思うと涙がこみ上げてきた」
普段は兵庫県の施設にいる。こうして乗り物に乗り施設のある街を離れるのは、2年に一度、十日間程度である。65歳、身障者の彼は何事にも敏感だ。おそらく旅に出て広い世界の放された時、溜まったものがこみ上げてくるのだろう。
できなかったら工夫をする、それが彼の心情だ。いわゆる「犬食い」だが、昼に沖縄そばを食した。さてどう食べるのか、ごくふつうの素振りでテーブルの箸を口にくわえると、どんぶりの中の麺をすくって箸の上に置く。ゆっくりとそれを食し、麺を食べ終わった頃、スープも冷めているので、どんぶりの中へと口を持っていく。完食するのにつゆ等をテーブルにこぼすことほとんどない。
今日の宿に向かう途中、図書館の身体障害者用トイレを借り用を足した。時間がかかるのはわかっている。1時間後、職員に車椅子を押されトイレから出てきた。「森下さん、時間がかかるのとできないのとは違うぜ」私は彼の目を見て言う。「大だから長かった。たまたま、次に使う人がいたからズボンを上げてもらった。排泄が一人でできなかったら、旅はやめる」聞き取りにくい言葉で必死に訴える。
今、糸満の民宿にいる。宜野湾からの移動で、一時停止無視で交通違反の切符を切られた。多分、地元の人ならいつも警察がやっているところだと気づいているに違いない。だからというわけではないが、これからはなるだけレンタカーを使わずに旅することを考えている。