第5回、千羽鶴の行方その2

11月10日

糸満市の沖縄戦の慰霊碑はひめゆりの塔だけではない。100近い慰霊碑がある。首里の作戦本部が陥落し、南部に撤退した兵隊が、ガマと呼ばれる洞窟に住民とともに立てこもったことが、それだけの犠牲者を出した主な原因だった。糸満市周辺では米国の掃討作戦で数万人という民間人が命を落とした。

人知れず立つ慰霊碑に重度心身障害者施設の入居者が森下さんに託した千羽鶴を献納したい。「昭和20年6月20日、死亡人数159名」、「忠霊之碑」を彼は選んだ。千羽鶴を雨ざらしにするわけにはいかない、碑の目の前の小学校に預かってほしい、できれば6月の慰霊の日に千羽鶴を日にたむけてほしい、そんな森下さんの願いに「お断りします」という小学校。朝、電話をしてみたが校長は不在で話ができなかった。

しかし、よくよく考えてみると、「私たちも転勤族だから」という教頭先生の言葉もよくわかる。公務員なのだから、校長が森下さんの考えに賛同しても次の校長、またその次のと替わっていけば、彼の千羽鶴の意味を継承していくのは難しい。やがてゴミ箱行きになりかねない。

さてどうするか。「糸満にある平和祈念公園の資料館でボランティアをしている人を知っている」という宿の主人が協力してくれた。この地域の沖縄戦に精通したその人を通して、「忠霊之碑」に所縁がある久保田宏さんという70代の方と夕方6時に「忠霊之碑」の前でお会いすることが実現したのだ。以下、久保田宏さんが4歳の時に体験した、昭和20年6月20日、ここで起こった真実。

「この慰霊碑の下にはガマがあるのですよ」ガマは自然の洞窟、沖縄戦ではこのガマに日本兵や住民が立てこもった。ガマの中は住民と首里から敗走してきた兵隊で、満ちていた。ガマには水もない。「その電信柱のところにガマの入り口があって」宏さんは慰霊碑から3mほど離れた電信柱に目をやった。「私ら一家はガマの入り口の近くに固まっていたんです。親父がもう死ぬんだ。その前にうまい水を腹一杯飲もう」と、宏さんと妹を連れて、ガマを出て、海岸の真水が湧くところに向かった。

「うまい水を腹一杯に飲んでその晩は海岸で一夜を過ごしたんです。翌20日、ガマに帰ろうとしたらアメリカ軍がガマの周りを囲んでいて」これから先は宏さんもたった一人生き残った女性に聞いた話だ。

「降参しなさい、と呼びかけた。降参してはいけない、そう教えられています。誰一人それに応じる人はいない。ガマの入り口には日本の兵隊さんが銃を構えていました。ドラム缶からがガソリンがガマの中に撒かれました。そして火がつけられました。ガマの入り口に蓋をされたんです。女性一人だけが飛び出して助かった。ガマの中にいた部落の人たちは全員、死にました、窒息死です。私の母親も祖父も弟もこのガマの中で死になした」

「ここから100ほど離れた小学校の裏手のガマの中でも、71人がガス弾で亡くなっています」宏さんの言葉に、「ひめゆりの塔に近いこの米須地区では、当時の村民の52%が戦争で亡くなられました。生き残ったのは半分以下です。沖縄戦でも住民の死者が最も多い地域のひとつです」宏さんに同行した平和祈念公園資料館でガイドのボランティアをしている久保田暁さんが言葉を継いだ。

「森下さん、ありがとう、この千羽鶴、亡くなった人たちは喜んでくれているでしょう。鶴を折ってくれた施設の方たちの想いを大切にします」と、宏さんは2千羽の鶴を受け取ってくれた。そして、碑に千羽鶴を供えみんなで手を合わせた。

森下さんはまた、号泣した。「身障者がかわいそうという人がいますが、かわいそうのうちに入らない。身障者は自分の意思で選べるが、ここの人たちは自分の意思とは関係ないところで亡くなられている。これ以上の不幸はありません」言語障害の彼の口から聞き取った言葉だ。

今日から友人のAさんが4日間同行する。4日間だけ3人の旅行になる。この3人がどういう関係なのかは次回の旅日記で。