【動物園シリーズ・前編】「上から目線はダメ!それは動物に教えられたことでした」多摩動物公園ベテラン獣医・田坂清さん

開園61周年を迎えた多摩動物公園は、上野動物園の約4倍の広さである。園内はハイキング気分で動物の展示舎を観て回れるほど広い。そんな多摩動物公園で、動物に関わっている人たちを紹介するこの企画。

第19回目はベテランの獣医さんである。田坂清獣医(63)、主に上野動物園と多摩動物公園の動物病院で30数年、獣医を務めたベテランである。定年退職した今も、多摩動物公園に勤務する。以前、登場した若手の獣医さんや飼育員さんとは異なる、ベテランならではの動物のエピソードを紹介する。

動物園の獣医は園内の動物の治療や予防等のケア、新たに入園する動物の検疫等が主な仕事である。田坂清獣医が東京都建設局に入局したのは1980年。スタートは多摩動物公園だった。いろんな動物に関わった田坂獣医だが、「最初は獣医師に空きがなかったので、飼育員の仕事をしました」と語る。

大切なのは動物と同じ目線

「飼育員を4〜5年やりました。その経験が獣医の仕事でも役立っていますね」

最初はチンパンジーの飼育員だった。チンパンジーはよく人を見ている。そして新人を試す。夕方、チンパンジーが寝具用に使う麻袋を渡して朝回収するのだが、先輩飼育員には麻袋を返すのに、田坂獣医には知らんぷりをしている。餌で気を引こうとヨーグルトをあげても、いうことを聞いてくれない。

チンパンジーが自分を受け入れてくれない理由はなんだろう……、その問いは自分自身を見つめることにつながった。

「結局、私は動物に対して上からの目線でいたようなんです。こっちは人間だと無意識に動物を見下していた。そこで視線を下げ、チンパンジーと同じ目線での飼育を意識すると、チンパンジーの僕に対する接し方が、徐々に変わってきました」

動物と同じ目線になる、飼育員の経験で養ったその感覚は、獣医師になってからも動物と接する時に、相手が何を考えているのかを察するのに役立っている。

日本初、キリンを麻酔で倒して治療

印象深い治療の一つがキリンであった。田坂獣医が若い頃のことだ。積もった雪に脚を滑らせ、フェンスに脚を引っ掛けて後ろ脚を骨折したキリンがいた。さてどう治療するか。先輩たちと海外の文献を調べた。

キリンは反芻動物だ。麻酔で倒した時に胃の内容物が逆流し気管を詰まらせ、窒息死する危険がある。そこで頭絡といって、牛や馬の調教や使役に用いる首輪のような用具を工夫して用いた。頭絡の三方向にロープを配し、麻酔で倒したキリンの首が治療中でも真っ直ぐになるよう、三方向のロープを人が引っ張った。

骨折した脚に巻くギブスは、脚にぐるぐるとサポーターのように巻いた後、水でぬらすと固まるものである。麻酔から覚めたキリンは首を振って勢いよく立ち上がる。その時、キリンが倒れても事故が起きないよう部屋中にマットを敷いた。治療で使った頭絡は、キリンが立ち上がった時に外れるよう工夫した。

治療は無事成功した。キリンを麻酔で倒し治療した例は、この時が日本で初めてだった。

「小動物も治療します」例えばモグラ。

モグラは狭いところに飼われていて、運動不足になりがちで爪が伸び過ぎてしまう。そこで爪を切るために眠らせるのだが、どのようにしてモグラに麻酔をかけるのか。

「吸入麻酔をセットした小さな水槽に、モグラを入れます」モグラが横になったら、吸入麻酔のチューブの先をモグラの鼻に当て、ササッと長い爪を切り、処置が終わるとモグラを別の水槽に移し酸素を送る。

レッサーパンダの時もモグラと同じ吸入麻酔を使った。

「動物園の動物は長生きしますし、果物など甘いものを食べるので、歯の病気にかかる動物が多いんです。この時のレッサーパンダもそうでした。悪化した歯周病や虫歯を放っておくと命の関わることもあります。弱っている動物に、吹き矢等で直接麻酔薬を入れると、ショックで死ぬケースもある。その点、吸入麻酔は薬の量を調整しやすいんです」

レッサーパンダは体長50数㎝体重5㎏ほどで小さい。輸送箱にレッサーパンダを入れ、それを大きなビニールで包んで、吸入の麻酔を袋の中に送り込んだ。

ゴリラに麻酔をかける

チーターもこの方法で麻酔をかけたことがある。チーターで感じたことは、野生動物のデリケートな面だ。ある時、下痢が治らず、チーターの担当飼育員に呼ばれた時のことだ。

「最近、何か変わったことは?」と田坂獣医のそんな問いに、飼育員は「そういえばエサが少し…」

見せてもらった肉食のチーターのその時のエサは、脂身が多かったり筋の部分が多かったり。動物の下痢はエサからくることが多いが、特にチーターは肉の質が落ちると、すぐにお腹を壊す。

「以前はゴリラも、多摩動物公園で飼育していたんですよ」繁殖のため、1990年代半ばに上野動物園に移ったが、多摩動物公園にいた時はゴリラの人工授精に取り組んでいる。

精子を採集するには、体の大きなゴリラを眠らせなければならなかった。それにはある程度の量の麻酔を、吹き矢を使ってゴリラに投与する。ゴリラの展示舎の部屋は吹き矢が使いにくかった。そこで2本つなげた長い吹き矢を作り、まずゴリラが毎日通る通路の格子のところに置いた。

最初はゴリラも見慣れないものに興味を持ち、吹き矢をいじっていたが、そのうち興味を示さなくなる。吹き矢にすっかり慣れたところで、満を持したように、筋肉の多い後ろ脚の太もものところにプッと。

「吹き矢は慣れです。“打てる”と思ったら、躊躇なく思い切りプッと吹く。この感覚を体で覚えるために私も若い頃は練習したもんです」

この時は上手く麻酔をかけることができて、オスのゴリラから精子を採集。メスにも麻酔をかけオスの精子を注入したが、着床には至らなかった。

類人猿はそれぞれ性格が違う

――ゴリラ、チンパンジー、オランウータンと類人猿に携わっていますね。

「類人猿といっても、それぞれ性格が違います。チンパンジーは陽気で行動的ですね」

――ゴリラは?

「シャイです。まっすぐに人を見ないんですよ。ゴリラは人を斜めに見たり、チラッチラッと視線をこちらに向けたり」

――オランウータンの性格は?

「オランはじっくりと考え、判断して行動する。人の動きをよく見ています。実に賢い」

そのオランウータンに、田坂獣医は嫌われたことがある。上野動物園に勤務していた時だ。嫌われたのは日本でオランウータンの初出産を成し遂げた、クレヨンを使って、絵を描くことでも有名だったモリーという個体だ。以前、治療のために吹き矢を使い、麻酔をかけたことをモリーが覚えていて田坂獣医の姿を見ると、モリーは興奮状態に陥っていた。

そのモリーの体調がすぐれない。麻酔を使って眠らせ、じっくりと診察しなければならない事態となった。さて、どうするか。

続きは明日公開の後編で詳しく。後編もサイ、モウコノウマ等、動物たちの治療のエピソードが満載である。

取材・文/根岸康雄
http://根岸康雄.yokohama