動物園の舞台裏を紹介する本シリーズ、今回は動物の飼育を担う飼育員さんではない。動物園の様々な動物と接する仕事にしている人で、動物には大変にいいことをしているのだが、動物には嫌われている。なぜなら動物にとっては嫌なことをする人だからだ。
開園61年目を迎えた東京都日野市の多摩動物公園は、上野公園の約4倍の広さなので、ハイキング気分で園内の動物を見て廻れる。極力、柵を排した展示はより野生に近い動物を観察できる。シリーズ第16回は、多摩動物公園・動物病院の吉本悠人獣医(28・入園4年目)に飼育動物の逸話を聞く。
吹き矢をプッ!
動物が好きでこの道を選んだ吉本獣医。学生時代は野生動物の救護をするボランティアサークルで活動した。傷つき野生に返せないアオバトやフクロウ等を、保護動物として動物園に引き取ってもらったことから、動物園を知るようになる。多摩動物公園はトキをはじめ希少動物の保護活動にも、積極的に関わっていることに惹かれた。なんといっても動物園にしかいない珍しい動物の治療に、携える点が魅力だった。
東京動物園協会に獣医として採用され、多摩動物公園・動物病院に配属された。
「戸惑ったのは、獣医の教科書に載っていない動物ばかりで、どう治療をすればいいのか。扱う動物がどういう習性なのか、わからないことだらけでした」
獣医になった当初、動物病院内の6畳ほど檻には、アカカンガルーのカズオが入院中だった。
「カズオは虫歯が化膿し、顔が腫れて食欲が落ちていた。腫れが治るまで、一日置きに抗生剤を注射する必要がありました」
吹き矢を使って注射をした時は、先輩獣医の指導の声が飛んだ。「カンガルーは後脚が太いから、もものところを狙って吹くんだぞ。動き廻るけど、パターンがあって止まる時がある。その瞬間を見逃さず思い切り吹く」1mほどの吹き矢を握りしめプッと吹いた。「最初はそんなもんだな」カズオの太ももに注射器が刺さらない時は、そんな先輩の声を背中で聞いた。
治療するか、自然治癒に委ねるか。
初めてメスのアカカンガルーを飼育場で捕まえ、抗生剤を注射したのも新人の頃だった。まず飼育員が群れの中から、治療が必要な個体を部屋に入れる。部屋の中でカンガルーは、ピョンピョン飛び回っている。
「捕まえようとすると逃げるから、カンガルーの前に飛び出し、通せんぼをするようにして動きを止める。そのタイミングを見逃さず、尻尾を取れ!」それが先輩のアドバイスだ。
彼が尻尾を取ると、スタッフが左右からカンガルーの手や頭を押さえる。
「有袋類は声帯があまり発達していないので、捕まえた時に唸り声のような鳴き声を上げます。すぐに注射をして放しますが、最初は怖かったです」
尾っぽがなかなか取れないと、走り廻るカンガルーの息が荒くなる。特に夏場はカンガルーの体温が上がるので、これ以上は危険だと判断した先輩獣医が、「今日は止めよう」と声を上げたこともある。
「早く尾っぽを取れるようにならないとな」新人の吉本獣医にそう声をかけたのは、1年後に定年退職を控えた大先輩だった。この先輩には大切なことを教えられた。ある時のことだ。ケージの中のショウジョウトキが、脚を引きずるようにしている。
「脚のレントゲンを撮りたいですね」早く治療をしたい吉本獣医がそう声を発した。すると「これくらいなら放っておいて大丈夫だ。自然と治るよ」と、横でトキに目をやる大先輩がつぶやいた。
「僕らは動物に良かれと思ってやっているのですが、動物にとってはありがた迷惑で。野生動物は、捕まったら殺されるイメージを持っていますから」
治療するには、捕まえなければならず、動物に強い力を加えることになる。動物にとって相当なストレスだ。捕獲して治療したほうがいいのか、逆に何もしないで、自然治癒に委ねるのか。野生動物を診る獣医は、はっきりした判断が必要だと教えられた。
唇が10㎝裂けても大丈夫
また、野生動物は自然治癒力が優れているのだ。動物病院に獣医は4名いるが、新人の吉本獣医が一人で当直した日に、モウコウマの急患の連絡が入った。駆けつけると飼育場の寝室で一頭のモウコウマが3本脚で立っている。柵に前脚を引っ掛けたらしい。すぐに先輩の医師に来てもらい麻酔で眠らせ、骨折した前脚にキブスを巻く治療を施した。
人の手で交配したサラブレットは、脚の骨折は即、安楽死というイメージだが、キブスをした野生のモウコウマは、2〜3ヶ月で完治し、今は4本脚で飼育場を走り回っている。
「これは縫わなければダメですよね……」
彼が多摩動物公園の獣医になって2年目のことだった。「チンパンジーの唇が裂けたんですけど」という飼育員からの連絡で見に行くと、ケンタという個体の唇が、10㎝ほどパックリ裂けている。仲間同士のケンカが原因だ。吉本獣医は大変なケガだと思ったが、「これくらいなら縫わなくても治るよ。抗生剤と痛み止めを出しておいて」写真を見た係長は、大したことではないという感じの口調だった。
半信半疑で調合した内服薬を飼育員に渡し、飼育員が餌に混ぜて与えていると、係長の言葉通り、ケンタの唇の傷口はいつの間にか、くっつき完治していた。
「野生動物の自然治癒力の強さを、今更ながら見せつけられた思いでした」と、吉本獣医は言う。
獣医は動物たちの嫌われもの
このチンパンンジーのケンタには、後日談がある。ケンタは群れのトップだったが、世代交代でトップの座から降り、精神的に落ち込んで”ウツ状態“に陥った。「食欲がない、痩せてきた、便が柔らかい」と、飼育員から聞いていのだが。
日々、動物の世話をする飼育員はある程度、担当の動物との信頼関係を築いている。だが、獣医は動物の世話をすることもなく、時々姿を見せて嫌なことをして去っていく。動物としては良い印象を持っていない。特にチンパンジーのような頭の良い動物は獣医嫌いで、吉本医師に唾を吐いたり餌の小松菜を投げたり。
獣医は来てほしくないと思われているし、そもそも野生動物はできる限り放っておくのが原則だ。多少は気になったがケンタのウツ状態は、チンパンジーの社会での出来事が原因だし個体の自然治癒力も高い。すぐに元気になるだろうと、チンパンジーの展示舎から足が遠のいていた。ところが飼育員からの連絡で駆けつけた時、ケンタは痩せ細っていて、やがて衰弱死する。
「ケンタが気になっていたのだから、もっと様子を見に行くべきでした。手をかけ過ぎても、またかけなさ過ぎてもまずい。治療をするかしないか、その境目を見極めないといけない」
弱みを見せると敵に狙われる、そんな可能性がある野生動物は、ケガや病気でも症状を隠すと言われている。
問題のある動物の状態を常に推察すること。野生動物を診る動物園の獣医はそこが大事だと、強く思った出来事だった。以下、後編に続く。
取材・文/根岸康雄
http://根岸康雄.yokohama