11月22日
昨日遅く横浜の自宅に戻った。今、支度の仕事部屋でこの項を書いている。
11月21日、午前11時過ぎ、那覇空港4階のレストラン。森下善和さんは注文したカツ丼を前にして、しばし眺めている。「施設に戻ったら、こんなに美味しそうなものは食べられないからな」、施設での毎日の食事では、特にお粥のような柔らかいご飯が苦手なのだという。柔らかいご飯は重度心身障害者施設の入居者の食事介護に適している。入居する施設で介護なしに食事ができるのは彼一人だけだという。「何で、自分でやるんや、やってもらったらええやないかって同じ入居者には言われる。努力して自分でできるようになったら、介護の点数が減らされ、もらえる金が少なくなると思っているんや」だから、食事もトイレも着替えも全て職員にやってもらう。使える身体の機能を生かし、自分でやろうと努力をする重度心身障害者は、施設では彼一人だけだという。
ちなみに、森下さんが受け取る年金は月に8万1400円。うち施設使用料が1日1500円、電気代約1万円、インターネット5000円、電話代は言語障害があり人の倍、時間がかかるのでおよそ5000円、薬や本等、雑費が5000円程度、残った1万数千円を貯めて1〜2年に一度の旅行費用に充てる。施設の障害者にはいろんな人がいて、缶コーヒー大好物で毎日数本飲む人や、余った年金を長年コツコツと貯め、800万円以上持っている障害者もいるという。
私と彼は那覇空港22番搭乗口にいる。会話は自然と旅行中のトイレの話になる。最初の糸満の民宿はほとほと参ったようだ。「あの民宿を選んだのは森下さんだぜ」「メールをしたら、バリアフィリーで障害者の人も泊まったことがあるというから」トイレの壁がベニヤで、手すりも安普請だからガタガタする。「小便の時は立ち上がって体重を手すりに預けるから、手すりが壊れそうで怖かった。トイレの中に車椅子も入らない、ふつうの家なんで、靴を履けないから床が滑って、なおさらトイレができなかった」早朝、車で近所のひめゆりの塔の身体障害者トイレに彼を連れて行ったが、トイレは閉まっていたこと。彼の発案で総合病院のトイレに飛び込んだこと。「民宿のお風呂場も手すりが付いてなくて障害者は使えませんでした」「俺が森下さんの体を洗って、シャワーで流してやったじゃないか。あんたは重たかった」民宿での体験は善意が前提であっても、安易にバリアフリーという言葉を使ってはまずいことを教えてくれた。
「右膝も痛かったし、最初は途中で旅ができなくなることも考えました」右足を踏ん張り立ち上がれれば、トイレもシャワーも一人でできる。逆に右膝の踏ん張りが利かなくなると、立ち上がることができなくなり、一人でできることが狭まる。「でも根岸さん、俺は立ち上がったりして、よく膝を使うから。重度の障害者はあまり動かない。だから健常者のように膝が痛いなんて言う人はいません。そう思うと俺も健常者に近づけたような気がして嬉しい」
「1945年の沖縄戦で159人が犠牲になった糸満の“忠霊之碑”の生き残りの人に話を聞けたのは、民宿の主人の尽力だった」「洞窟の中にガソリンを巻かれ、みんな焼き殺された、この旅行で一番思い出深いところやった」「森下さんが暮らす施設の人たちが折った7千羽の折り鶴は思いがこもっていて」「だから俺も7千羽の折り鶴を思いのある場所に全部、贈ることができてホッとしました」
「今回の旅行は今までの旅行と違いました。今までの旅行は好きなところに行って好きな時に休んで、でも今回は」私は抑えたつもりでも、森下さんにあれも見せたいこれもやらせたいという思いが先に立ち、彼には負担をかけたのではないか。昨日の国際通りのショッピングの後、「疲れた…」とつぶやいた彼の言葉には、そんな意味がこもっていたのかもしれない。
「なんか、俺の存在はあんたにとってありがた迷惑だったかな」「いや、そんなことない、俺のこといつも気にかけてくれてすみません。いろんな経験ができました、ありがとう」「オヤジ、本当にそう思っいるのか。誰にでもありがとうを言って、調子いいだけなんじゃないか」私はそんな軽口を発すると、笑顔の彼は細い目をさらに細くした。ハンディキャップがあり、一見弱そうに見える森下さんだが、その内面にはふてぶてしく力強いものが潜んでいると、16日間の沖縄旅行で私は気づいている。
森下さんはもつれる舌でこう言った。「子供の頃、じいちゃんばあちゃんと旅行した時のことを、ちょっと思い出しました。俺、大人になって初めて家族旅行をしたような……」
搭乗手続きが始まった。係員が彼の車椅子を押す。「森下さん、元気でな、また会おう」「ありがとうございました」そう発した彼の語尾が嗚咽で途切れた。不覚にも熱いものがこみ上げてきた。
森下さんと私との16日間の沖縄、石垣島の珍道中、まずは無事に旅行を終えることができてホッとしている。