11月8日
糸満の民宿に到着すると、ダンボールの箱が届いている。その中には7千羽の千羽鶴が入っていた。外に出られない自分たちの想いを込め、施設の障害者がみんなが折ってくれたそうだ。中には1羽折るのに30分かかる障害者もいる。社会に貢献したいという障害者施設の人たちの気持ちが伝わる、森下さんがここぞと思うところに献納してほしいという想いがこもっている。
ひめゆりの塔がある沖縄本島南部に位置する糸満は、沖縄戦最後の激戦地だ。それは激戦というよりも、虐殺の地である。艦砲射撃、グラマンの機銃掃射、火炎放射器等々、皆殺しの掃討作戦だった。何万人という民間人が命を落とした。糸満の慰霊碑はひめゆりの塔だけではない。あっちにもこっちにも100近い集団自決等、大量殺戮の碑が残っている。ひめゆりの塔には千羽鶴がたくさん献納されている。人知れず忘れ去られているような慰霊碑に千羽鶴を献納したいと森下さんが言い出した。なるほどと私も思った。
100近い慰霊碑の中で彼が選んだのは、「忠霊之塔」という慰霊碑だ。その慰霊碑には「昭和20年、6月20日死亡人数159人」と刻まれている。そこに千羽鶴を献納したい。実際に行ってみた。しかし、管理する人もほとんどいないのだろう、碑は枯れ枝にまみれていた。ここの千羽鶴を置いても、雨や風で一週間も持たない。目の前に小学校があった。この小学校に保管を頼みたい、そして、できれば終戦記念日か虐殺のあった6月20日にこの千羽鶴を慰霊碑に飾ってほしい、そしてそれを小学生に伝え、沖縄戦の悲惨さを後世に伝える一助になればと、森下さんは考えた。
「自分で交渉してごらんよ」私は森下さんの介助はしない。彼が「できない、手伝ってくれ」ということのみ手助けをする。彼はいつものように車椅子をバックで漕ぎながらゆっくりと進み、小学校の中へと消えていった。40分後、私も小学校を訪れる。彼の周りには先生や生徒が集まっていた。先生の一人が森下さんの訪問の目的を確認するように私に伝える。言語障害の口で懸命に喋ったのだろう、彼の趣旨は伝わっていた。「今、校長がいないからね、私らも転勤族でしょう、校長室においてくれと言ってもねえ、とにかく校長に確認し宿泊先に電話します」という返事だった。民宿に戻ると学校から電話があった旨を宿の主人が私に伝える。「『お断りします』ということでした。何がお断りなんでしょうかね」
私もわからない、彼の考えに無理があったのだろうか。明日小学校に電話をして真意を聞いてみる。それをここで紹介する。
65歳の彼は体力の低下が著しいことに改めて気づく。一回の大便を済ませるのに障害者用トイレに1時間以上こもる。それが終わるとヘトヘトのように見える。果たしてあと2週間の旅行、私自身が持つかどうか……。